FC2ブログ
プロフィール

花ある日々

Author:花ある日々
ブログへようこそ!

「楽しく、肩の力を抜いて気らくに、子育ても旅も人生も!」をコンセプトに綴っています。片言英語での個人旅行です。出会い、失敗は旅や人生の醍醐味!

2019年2月 中国桂林へ従兄夫婦と4人旅。
2018年秋 世界ゴールド・ノゾエ氏演出『病は気から』さいたま芸術劇場に出演
2018年6月 アメリカ西海岸をレンタカーでまわる。
2018年2月 ノゾエ氏演出ワークショップ『病は気から』(モリエール)芝居に出演。
2017年11月 息子夫婦とクロアチア・モンテネグロ・ハンガリーへ
2016年12月 故蜷川幸雄企画「1万人のゴールド・シアター2016」に出演。
2016年9月 夫婦でニューヨークへ。
2016年2月 従兄弟夫婦と4人で台湾地方旅。
2016年1月 夫、息子と私の3人でコペンハーゲン、スウェーデン、アイスランドへ。
2015年9月 夫と車で北海道ユースホステル利用の安旅。
2015年8月 友達と韓国ソウル、安東、水原へ
2015年5月 従兄弟夫婦と4人でベトナムへ。
2014年11月 女友達4人でメルボルンへ。
2014年10月 従兄夫婦と4人でトルコへ。
2014年2月 韓国南部の田舎街へ夫と2人旅。
2013年10月 1か月ヨーロッパを夫との2人旅。
2013年1月~2月オーストラリア・ニュージーランドを35日間の旅。自炊中心の安旅行。
2012年4月〜5月 韓国・上海。

夫:慎重派、倹約家、現実的、カメラ好き 走ることや木工細工が趣味。

私:好奇心旺盛、向こう見ず、楽天家、おっちょこちょい、食べること大好き!

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

訪問者数

カテゴリ

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2掲示板

ブロとも一覧


ワーキングホリデーinオーストラリア

ちょことまろん

FP(ファイナンシャルプランナー)の『情報×スマホ』な生活

陶芸などなど

楽らく歩こう!
海外個人旅行や楽な子育て、手抜き家事紹介お気楽ブログ
台湾地方旅 7
2月21日に間違った情報をお伝えしてしまいました。
復路のバニラエアー内アナウンスによると、「機内での持ち込みアルコール飲酒はお断り」でした。訂正しお詫び申し上げます。「空弁」OKです!

IMG_0254.jpg

台南市の中心地にある「赤嵌楼」は、1624年にオランダ人が建築した赤煉瓦の建物。その後、鄭成功の軍の手に渡り、政治の中枢の場として使われたという。

昼間見学した後、出口で再入場を可能にするハンコを手に押してもらい、ライトアップされた頃に再訪。

ところが赤嵌楼に近づくにつれ、何やら賑やかなバンド演奏と歌声が聞こえてきた。数曲日本の演歌のような曲を中国語で熱唱したあと、日本語で歌い始めた歌詞に驚いた。まさに皇国崇拝歌や軍歌。まさか、こんなフレーズが、スピーカーで台南の街に流れているとは! 興ざめも甚だしい。忍び寄る戦前への回帰の現れか?

IMG_0290.jpg

静かに暗闇に浮かび上がるシルエットのみを愛でたかったなぁ。
IMG_0287.jpg

スポンサーサイト



台湾地方旅  6
台南市安平の路地を散策している時、私たちに話しかけてきたおじさんは、昭和16年生まれだという。

古さに味わいがある台南駅
つまり終戦した昭和21年までの5年間、日本人だったということを伝えたかったのだろう。生後から5歳まで、彼の人生に日本はどう影響したのだろうか?

彼の表情から伺える限りでは、好印象だったのかもしれない。
ただ、昨日の路上に刻まれた言葉を見ても、清水寺街から開山路街に、路の名を改名していることを思えば、他国を侵略し我が国に同化させようとしていたことは否めまい。

幸い今回の旅でも、このおじさんを含めて、見知らぬ私たちを歓待してくれた人々との出会いが複数回あった。
追々紹介しよう。
安平へは、台南市内から路線バスで30分くらい。
台湾地方旅  5
くねくねとした路地を歩いていると、人だかりの店発見。

おでん屋。1本2元。約8円。

魚肉が多いが、色んな種類があり美味しい。皿にビニール袋をかけ、その上にのせる。タレは甘辛いものと、甘い醤油砂糖タレ。


また違う路地では、道路上に日本統治時代を示す表示が。
「日治初期   1895  清水寺街」「1945 戦後 開山路街」
と、刻まれている。
その道を歩いていると、おじさんに声をかけられた。
中国語が多少分かる従兄弟が、私たちは日本人と答えると
僕も5年間日本人だったという。
?マークが私の頭の中で回っている。
台湾地方旅 4
ホテルのスタッフは、ホテルはもちろんのこと、市内に地震の被害はないという。ぜひキャンセルせず来て欲しいとも。

そこで予定通り2泊で台南市内へ。

その言葉通りだった。古い家屋や土壁、レンガ壁、どこにも地震の影すら見えない。

こんな長屋も壊れてない。


老街というレトロな通りも味わい深いまま残っている。市民はいつもの通り何事もなかったように生活していた。日本のメディアは、ビル倒壊状況を過剰なまでに繰り返し報道したように思う。

路地を足の向くままゆっくり散策すると、思いがけない出会いがあったり、洒落た壁の装飾を見つけたりする。
台湾地方旅 3
今回は、台南と台北北部の九份、十份や平渓線を各駅停車しながらゆっくり回る予定。

ところが2月6日3:57 台南で震度6.4の大地震が起きた。

外国人向けの鉄道パスチケット(新幹線2日間、在来線5日間乗り放題で約1万弱)をネットで予約した2日後だった。台南のキャンセル不可のホテルも連泊でおさえている。

しかし阪神大震災、東北大地震の被害を知っているだけに、台南へ出かけることはためらわれた。

地震の被害は甚大に違いなかろう。
果たして行って良いものか?
ニュースで繰り返されるのは、倒壊したビルの悲惨な被害状況。

悩んだ。
むろん余震の怖さではなく、当事者たちの心情を慮りキャンセルすべきではないかと。

が、インターネットであらゆる角度から調べても、倒壊したビルの話題のみ。新幹線の高鐵も再稼働し始めたというが、それ以上の実状がつかめない。

そこで直接台南のホテルへ電話し、聞いてみた。


台湾地方旅  2
スーツケースに入れてはいけなかったのは、カメラなどのバッテリー。

荷造りしている時、私が夫に、
「バッテリーはスーツケースにネ!」と、わざわざ入れさせたモノ。
カウンターへ向かう夫は、呆れかえってむくれている。

LCCは水も有料。夕方から夜にかけてのフライトなので、お茶や軽食を買い込み乗り込む。
下記は、聞き間違えでした。持ち込んだアルコールは遠慮下さいという内容であることを、帰りの便で確認しました。訂正しお詫び致します。
ところが、さらりと
機内への飲食物の持ち込みはご遠慮ください。
とのアナウンス。

えぇ「空弁」という新語も生まれ定着し出しているというのに、それはないだろう!と、パクついたのは言うまでもない。


台湾地方旅  1
従兄弟夫婦との4人旅。台湾編
台湾の桃園や平渓線でランタンを飛ばす祭りに行こうと誘ってくれた。
LCCの格安航空バニラエアーを利用。成田第3ターミナルは、第1や第2ターミナルと比べると、空港設備にも格安感を否めない。天井は配管むき出し、カウンターも出国審査も長蛇の列。平日でこんなに並んだのは久々。

ようやく荷物を預け、身軽になり、空弁でも買おうかとウロウロしていると、ひっきりなしに色んな客の名が呼び出されている。
「なんだろうねぇ?」
他人事にお気の毒と、思っていたら、突然夫の名前が第3ターミナルに響き渡る。
「荷物の再点検が必要なので、至急カウンターまでお戻りください」
なんだ? 何で? 何入れた?


ゲート前の階段下でフライト打ち合わせを始めたパイロットとCA達。

日本軍慰安婦とされた女性たち 10 ラスト
複雑性PTSD
普通の人が普通に生きているだけでは経験しないことを体験したことで何年後までも発症する後遺症をPTSDといいますが、その診断基準では、宋さんの言動を理解することができずにいました。

ところがアメリカの精神医学者ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』(みすず書房、1996年刊)に、大震災やオーム事件のような一過性の衝撃的な被害ではなく、長期に渡って監禁され繰り返し害を被った場合、複雑性PTSDという診断基準を設けるべきだと書いてあったのです。まさに宋さんと一致しました。

また、普通に生きていたら経験しえないようなことを経験した人が心身に負う傷というのは、私たちのように一般的な経験しかしていない人がいくら想像しても、結局は「分からない」ということが分かりました。それが第一歩で、分かろうとすることが支援運動だと分かったのです。


春近し!冬の寒さを凌ぎ青々と新芽が。

解決に向けて
人種問題や女性問題、あらゆる差別問題は、人権を蹂躙されている被害者が訴えて初めて解決に向けて少しずつ進んでいくものです。

日本だけが責められているとよく言われますが、責任を問うべき対象がはっきりしているからです。仏、英、独などは植民地に強制売春制度を持っていましたが、19世紀の話なので、被害者が訴えるということはありません。また第二次世界大戦時に国家が慰安所というようなものを持っていた国は日本とドイツだけと言われていますが、ドイツの記憶責任未来財団関係者の話では、被害者が名乗り出ていないので実態がよく分かっていないそうです。

1990年代以降、被害者たちが日本政府に謝罪と賠償、被害回復を求めて運動を起こしました。むろんどこの国でも戦争中に女性への性暴力がいろんな形で起きています。しかし戦時性暴力問題に関して被害者が訴えているのは、唯一この問題だけです。被害規模や人数の問題ではなく、たった一人でも国家に責任があるならば補償するべきです。

日本軍慰安婦制度についての責任者処罰は今からでは無理なので掲げていませんが、ユーゴ紛争で処罰されているように、今後の歯止めにするためには、現在も起きている戦時下性暴力を裁く際に責任者を処罰するということがとても大事だと思います。
日本の名誉を大切に思うのであれば、責任を取ることで、歴史上戦時性暴力に責任を取った最初の国として世界から本当の意味で尊敬される国になるでしょう。そのチャンスが与えられているとも言えます。(終)

竹富島で見た虹。




日本軍慰安婦とされた女性たち 9
宋さん語録から
「人の心の一寸先は闇だから、人の心が信じられずに生きてきたんだよね。だまされてばかりいたからさ。でも裁判かけて体験を話してから、ちっとは安心した。オレも少しは人間らしくなったよ。すっかり垢抜けたババアになっちまった。」
裁判を始めてから5年目、初めてカメラを向けた日の言葉です。


人の心を信じられず5年間やってきたのだけれど、どうも信じてもよさそうな人がいるなという頃で、
「支える会を一番信用している」とも言っています。

私が一番悲しいと思うのは「少しは人間らしくなった」というくだりです。

正直なところ宋さんに初めて会った頃は、獰猛な獣に会っているような感覚がありました。宋さん自身が、自分が人間らしくなったと思うということは、つまり被害回復によって、それまでの自分がいかに人間らしくない暮らしをしてきたかということに気づき始めたということです。それが裁判を始めて5年目頃だったのです。

「繰り返ししゃべったって、元のようになるわけじゃない。だけど分かってくれる人は分かってくれるからさ」
証言集会の前夜は、信用されなかったらどうしようと眠れないそうです。しかし宋さんの話を受け止め理解してくれる人がいるということを、何度も何度も確認する、その繰り返しで被害回復ができてきたのです。

「オレは第一戦の弾の中から生きてきた人間だから、おっかないことなんて何もないよ。お前らが支える会を始めて、中途半端に疲れたからやめるとか言わない度胸があるのなら続けるし、やめたけりゃやめるし。これはお前たちの問題だ」

これは国民基金の話が出た頃に、宋さんが「お前らはどう思うんだ?」というので、「これは宋さんが考えて決めなくてはならないことだから……」と、宋さんに決断を委ねたときに突き返された言葉です。

私たちとしては、自分の意志を尊重されたことがない宋さんに何でも決めてもらいたかったのですが、騙され続けてきた自分に対しても信頼が持てないのに、「宋さんが決めなければダメなのよ」と言われることが辛かったということに、この言葉で気付いたのです。また私たちは「宋さんが決めて!」と言うことで逃げていたのだとも知らされました。一緒に悩んで一緒に決める、そして支援者として責任を取るという、運動する者としての姿勢を正された言葉でした。


「これから生きる子供たちのためにも……戦争は絶対にやっちゃいけない。オレの口から言っても、あんたたちの口からも言って。……戦争をしないのは国のためじゃなく自分ためなんだから。」
戦争のことはオレしかわからないから、オレが言うしかないという考え方だったのに、託すようにもなってきました。

注:1995年に発足したアジア女性基金(国民基金)は、当初国民からの募金で韓国、台湾、フィリピンの被害者たちに200万ずつという計画でしたが、後に首相の謝罪文を付けるとか、医療費に関しては国から出すというふうに変わっていきました。オランダ人被害者については国庫から首相の手紙と一緒に補償金が直接渡されているので、それをもって国家賠償をしたとみてもよいのではないかと思います。(続く)

日本軍慰安婦とされた女性たち 8
1993年4月提訴

提訴する前に訴状内容確認のために女川へ行きました。すると朝からあんなこともこんなこともあったとしゃべり続けるのです。布団に入って横になった後も話し続ける宋さんの背中をさすると、ふっと笑みを浮かべコトンと眠りについたのを見て、溜まっているもの全て聞き、実母を責め続ける宋さんを丸ごと受け止めることがまず必要なんだなぁと思いました。

金魚草

宋さんを支え裁判を続けるのは、本当にしんどくて、「裁判に勝って謝罪、賠償を!」と口では言っていても、心の中では、ある日突然裁判が終わらないかなと思っていました。

宋さんの変化

宋さんを撮った映画『オレの心は負けてない』を観た人から「慰安婦の映画だから覚悟してきたけれど、却って勇気をもらいました」と言われます。

裁判は1993年4月5日に提訴し2003年3月28日上告及び上告受理棄却決定が出るまでのピッタリ10年間の闘いでした。そのちょうど真ん中の1998年4月からビデオを回し始めました。宋さんの話を撮っておかないと後で後悔すると思ったからですが、宋さんの言動を面白いと思える余裕を持てるようになるまでに5年かかった、ということでもあるのです。



そしてその頃から宋さん自身もまた変わり始めたのです。人々に自分の経験を話し受け止めてもらうことで、自分で自分の傷を癒やして、最終的にはそれを社会化し、運動化する中で、自分の被害に対する見方が変わっていくのです。母親の所為ではなく、どういう歴史状況の中で自分が害を被ったのかを認識し変わっていきました。宋さんは裁判の闘いの中で、自分の被害に気づいていったのです。

裁判を始めた頃は、チマチョゴリに強い嫌悪感をもっていました。
例えばフィリピンと韓国から来た慰安婦の人たちと一緒に記者会見をしたことがありました。発言を求められた宋さんは、先ずチマチョゴリを着ていた韓国人の被害者お二人に向かって
「なぜそんなみっともないものを着てきたんだ。日本に来るときは洋服の一枚くらい買って、日本語も覚えて来い。日本語をしゃべれないとバカにされるんだぞ」
と言ったのです。

お二人とも長く慰安所にいたので日本語が分かりますし、宋さんも朝鮮語は全部忘れたと言うのだけれど、通訳される前にお互い話を聞きながら泣いていました。韓国のお二人は戦後国に帰ることができてせめて民族性の回復はできたけれど、宋さんは慰安所で徹底的に踏みにじられた人間としての尊厳の回復ができなかっただけでなく、慰安所で否定された民族性を日本でも回復できず50年を生きてきたんだなということを思わずにいられませんでした。ところが裁判闘争の後半には、訪れた韓国でチマチョゴリを着て喜び、日本に持って帰りたいとねだるまでに変わったのです。

最終的には2003年3月に最高裁で上告棄却が決定するのですが、落胆する私たちに、宋さんは「裁判では負けたけれど、オレの心は負けてない」と言いました。その言葉を映画と本のタイトルにしました。まさに人間の尊厳というのはこういうものだと思わせるような感動的な映像をこの映画の中で観ることができます。(続く)

日本軍慰安婦とされた女性たち 7
11月17日からしばらくお休みしていた「従軍慰安婦とされた女性たち」を再開します。
これは、去年の8月に地元の「9条の会」が主催した梁澄子さんの講演録音を文字化したものです。なお梁澄子さんは、日韓はもとより世界中の慰安婦を支えている団体である日本軍「慰安婦問題解決全国行動共同代表です。

講演の後半部分は、在日の元従軍慰安婦、宋神道さんについてです。

宋さんとの出会い

1991年に金学順さんが日本軍の慰安婦だったと韓国で名乗り出て裁判を起こし、日本でも慰安婦問題について話題となりました。すると「慰安婦110番」という私たちの会のホットラインに、「宮城県に訪ねてほしい人がいる」と電話が入ったのです。でも本人からの電話ではなかったので、嫌がるかもしれないと思い、私たちは行かないことにしました。ところが作家の川田文子さんが、どうしても話を聞きたいと訪ねて行ったのです。

物事はこうした掟破りをする人が出て前に進むもので、嫌がるのかと思っていたら、意外にも「(金学順さんは)オレと同じだと思っていた」と50年間溜め込んだ話をすんなりと語ってくれたそうです。金学順さんの裁判にも関心を寄せていたので、「宋さんも裁判をやりたいのかな?」と聞くと「そうではない」と言う。でも関心はありそうだ、ということで在日朝鮮人である私と弁護士、川田さんの3人で、後日宋さんの所へ行きました。宋さんは、経験豊かな貫禄ある人が来ると思っていたのか、まだ30代半ばの私たちに失望した表情を見せました。


人の心が信じられない

2泊3日で証言を聞きましたが、『日本人社会も在日朝鮮人社会も、何もしてくれない』という思いがあったのか、批判的な言葉をたくさんぶつけてきます。しかし宋さんには物事の本質を見抜く才能があって、舌を巻くほどうまい表現で問題点を指摘するので、言われるたびに、確かにそうだと頷いていました。そうしたら3日目には目の中に燃えていた敵愾心の炎がすっと消えたように見えたのです。

宋さんは色々な人に騙されて慰安婦にされ、終戦後も民間人の振りをして1日も早く引き揚げたい軍人から夫婦になろうと言われ付いて来たら、日本に渡ったとたん、港で捨てられました。なので、近づいてくる人を試す癖が付いていたのでしょう。だからわざと怒らせることを言ったのです。でも言っていること自体は正しいので怒らなかったら、宋さんは「おめえは怒らないんだな」と。また「騙されてきたから人の心が信じられないんだ」と言うのです。

「オレは裁判やりてい。」「やはりやりたくない。」心が揺れます。宋さんは「人が信じられない」とよく言うのですが、騙されて騙されて生きてきたから、人が信じられなくなったのですが、騙されてしまう自分も信じられなくなっているのです。裁判で闘う宋さんを支える私たちに対しても、容易に不信感というものは拭えないのです。だから私たちも試され何かというと怒りの対象にされました。不信感の塊。それが、宋さんに会ったときの印象です。(続く)

免許失効 後編
9時半頃には免許センターへ到着。

続々訪れる人々は右へ折れるが、受付の人に聞くと、免許失効者は2階の相談所へ行くようにとのこと。
相談所なの? と思いつつ階段を上がる。

怖ず怖ずと
「うっかり更新を忘れてしまって……」というと、
「うっかり、ですね。違反は無いんですね?」と
念をおしたあと、
「免許失効者の受付は1時から1階でしますので、この書類に必要事項を書き、収入印紙を買って貼って準備をしておいてください」
「1時? 午前中に更新できないんですか?」
「失効したのですから、更新ではありませんよ。1時から45分間のみ受付です!」

3時間以上、何をして待てというのか??
受付はたった45分間のみ??
免許更新を忘れた私が悪いのだけれど、
失効者向けの案内を、しっかりネットでチェックしなかった私が悪いのだけれど、
何だか凄~く悪いことをした人のような気分。

夫曰く
「12時半から並べ!」
素直に従うしかない私。

12時半でも2番目だった。

この案内板の受付を通るとき
「失効の理由によっては、5時までかかります」
と脅かされる。
視力の検査を受け、2階の部屋へ。

免許証をチェックされ、ABC3種類の列へ振り分けられる。
掲示板に終了時間目安として、Aは3時半、Bは4時、C5時とある。
私はBだった。

この5年間で何を違反したっけ?と、脳のひだを広げ探す。
一方通行違反は、もう8年ほど前だったし、速度違反では捕まってないし、などなど。
何度「何の違反でBなのか?と尋ねてみようか」と思ったことか!
が、よく掲示板を見ると、Aは優良者、Bは一般者、Cは違反者とあるではないか。
少なくとも違反してBに振り分けられた訳ではないというところで納得した。
優良な運転をしているとは、微塵も思ってないし、失効理由も同情の余地無しだもの。
ここでも講習手数料と交付手数料を支払う。

講習は、ABCそれぞれ部屋が違う。
前に立つ人が替わるたびに、何度も何度も何度も、
「いいですか?あなた方は免許を失効したのですから、本来なら筆記試験、技能試験、資格試験をうけてもらい、パスした人だけ交付となり、今日が免許初交付日になるわけです。が、資格検査の視力検査は先ほど受けてもらいましたし、うっかり忘れて違反したわけではないので、技能も筆記試験も免除します」
という。
さらに「今までの経歴はすべて無くなり、若葉マーク(初心者マーク)を1年間付ける義務があるのですが……」とも。
『えぇ? 若葉マーク? 確か8年前に息子が買ったのがあるはず……』
と、思っていたら
「若葉マークは、私たちが、今日初交付する免許証の裏に、はんこを押してあげることで免除になります。その手間で20分かかります。」
最後に
「何度も言いますが、今日が初交付日になるので、次回の更新は5年後ではなく、3年後の誕生日になりますので、今度はお忘れなく……」と。

慇懃無礼というのか、非常に丁寧でいて、上から目線の物言いに、私のへそが曲がっているのか性根が悪いのか、うんざり!
この嫌~な思いをこれでもかと、すり込むことがうっかり防止策なんじゃないの?
と夫。
皆様、老婆心ながら、くれぐれも失効なさいませんように!
免許失効
夫が
「おい、免許更新行かなかったのか?」
と。
うん~? 確か2ヶ月余裕があるはずだから来週早々に……と、言いかけて、はっと気づいた。
そうだ、今はもう2月、私の誕生日は12月。
更新は誕生日を挟んで2ヶ月だった。やってしまった! 

うっかり免許を失効するナンテ……。
フルタイムで働き、子供たちのPTA活動役員もこなし、それ以外の会にも所属し、目の回るような日々の時でも欠くことがなかったのに。

カレンダーに書き込んでおけばいいものを、「大丈夫、覚えている」と過信したのが間違いだった。

自覚している以上に、記憶力は落ちているし、思い込みも強くなっている。

免許を再取得することが、こんなに大変だとは!
市役所へ走り、住民票を用意するところから始まり、昨日は1日かけて、県の免許センターまで出かけてきた。
幸い退職し、暇をもてあましている夫に送ってもらえたからいいけれど、公共交通機関を利用すると、電車を2度乗り換え、駅から歩いて20分。1時間半はかかる。

夫は、朝一番に行き、列の先端に立てという。
朝8時過ぎには着くぞ!
と、ひとり意気込む夫。
因みに免許センターは8時半開館。

いやいや、その必要はないでしょ! 一番に並ばないと、良いものを逃すってわけじゃないのだから。
夫とひとしきり言い合いをし、妥協しあい、8時半に出発することに。

帰りに、野菜や旬のイチゴを直産直売の農協で買おうかなぁと、遠足気分の私。
ところが、そんな甘いものではなかった。

地面にへばりついて花を咲かすタンポポ

畑と小屋作り
ブロッコリーを収穫に畑へ。
ところが・・・

痛々しい(・_・;

夫たちの小屋作り、ノミと鋸での手作り。
棟上げの日はいつになるかな?

屋根を乗せる梁の部分。


アイスランド 18
翌朝、塩抜き肉のサンドイッチを持って、国立公園へドライブ。

前日の好天気と打って変わり、強風に曇天。

前後左右見渡せど、360度自然のみ。北極圏の海と氷河が削った崖、凍った道。


車から降り立つのも緊張。まず風が強く、ドアを開け閉めに一苦労。降り立つ地面はどこもアイスバーン。
ツルッと滑って骨折でもしたら大変。

一番息子が見たかったという半島の山は、雲に覆われ姿を現さず。
きっと冬以外の季節なら、良い景色なんだろうなぁ~。

半島をぐるりと270度周り、峠を越えて帰る予定だったが、吹雪で断念。
遠回りして海抜の低い峠を何とか抜け、ホテルへ戻った。

この夜も湿布を貼ったことは言うまでも無い。
何でこんなに肩がこるのやら……はぁ

そうそうドライブ中、とても心配だったトイレ。
視界を遮るモノは何もなく、あったとしても、この寒さと強風、男性なら何とかなっても、女性は無理。
ようやく見つけた公共トイレは閉鎖していたし……。
ただ国立公園の真ん中辺りにインフォメーションがあり、そこは真冬でも営業していた。
そこ1箇所だけでは、6時間以上のドライブは厳しい。
途中で見つけた小さな集落の、某会社のトイレも拝借!

無事アイスランドから戻ったコペンハーゲンは、雪に覆われていた。
公園でソリ遊びを楽しんでいる姉妹に、いつ雪が降ったの?と声をかけてみた。

すると、一緒にソリ遊びをしようと誘ってくれるではないか。
60才になろうとする見知らぬアジア人のおばさんを。
ウン十年ぶりに、公園の坂を子供たちと駆け上がり、ソリ遊びを楽しんだ。

こうしたちょっとした触れあいによる温かさやアイスバーンの緊張感、そして開放感が、心のひだに染み込む。
アイスランド 17
口に入れた途端、あまりの塩辛さに吐きだした。

白い泡の正体は、塩だった。
袋の表記を確認すると、塩漬けマトンと書いてある。

つまり保存食用の塩漬け肉に、私は塩を塗り込んで焼いたということになる。

白い泡に気を取られ、うっかりスパゲッティも茹で過ぎ、こちらもハッキリ言ってとてもマズイ。
夫も息子も私に気を遣って、マズイとは言わないものだから、2人の思いを代弁し
「マズッ! こりゃぁ食べられないわ。スパゲッティも美味しくないし、今日の夕飯は最低だね」
黙々と伸びたスパゲッティを口に運ぶ2人。「マズッ!」と何度も繰り返す私。

冷蔵庫に残していた肉と焼いた肉を一緒に鍋に入れて、4~5回煮こぼし、ようやく食べられる塩加減になった。
あぁこれが、塩梅(あんばい)かぁ。
とは、夫。

なおインターネットで調べてみたら、塩抜きは火を通す前に、塩漬けより濃度の低い塩水で行うのだとか。
火を通すと逆に塩が中に閉じ込められるのだそうだ。しかも煮こぼすことで、旨味をすべて洗い流してしまったらしい。
身をもってアイスランドの食文化を知った。


ようやく食べられるようになった肉。添えてあるのは、ポテトサラダ。


アイスランド 16 
レイキャビックの大型ショッピングセンターで、大袋に入った肉を買い込んだ。
スライスされた肉をグラム指定で買うこともできたが、息子と私は、なぜかその大袋をカートに入れてしまった。
2泊3日分の食料をここで調達するのがベストと判断したからだ。

アイスランド入りしてからすでに3日目、町から出ると、店どころか凍った山と雪に覆われた大地しかない国であることが分かったのだ。

が、その肉、なんと1.8キロもあった。3人なので1人600グラムずつ。いくら2泊3日分でも多すぎた。
袋を開けてみると、骨付き、しかもひとかたまりの厚さが7~8㎝もあるラム肉だった。

骨付きなので、切るわけにもいかず、フライパンで焼くには厚すぎる。
オーブンでじっくり焼くことにした。
念入りに塩、こしょうし、ニンニクのスライスと一緒にオーブンへ。

10分ほどすると、何だか白い泡が出始めた。
泡? なぜに? 不審だが焼き続けるしかない。
しっかり火を通さねば!
気になりながら、スパゲッティをゆで、ツナ缶とトマト水煮缶やタマネギでソースを作る。

食べた瞬間、その白い泡の正体が判明した。


アイスランド 15
それは、コペンハーゲンやアイスランドのレイキャビク4つ星アパートメントホテルには無かった。アイロンも室内用の物干しもあったのに。

それとは、洗濯機だ。

街のコインランドリーまで出かけるしか無かった。

それが田舎の小さな街のホテルにはあった。感激!しかも無料。

食器洗い機はどこにでもあったので、その便利さも実感。

ただ、ここでの初日の夕食で大失敗を(・_・;


リビングから見える保育園?幼稚園?到着したときは、子供たちが遊んでいたのに、アッという間に暗くなった。日の出は10時半、日の入りは4時前?
アイスランド 14
3箇所目もアパートメントスタイル。2つの寝室とリビング、ダイニングキッチン付き。1人6千円。インターネットで探し予約して。

数十軒しかない田舎の港町。事務所の二階がホテルらしいが、受付らしい場所も無いし、誰もいない。オーナーに電話すると、さして待つことなく車で夫婦揃って駆けつけてくれた。

何となく、そう何となくだけど、どんな客なのか確認?されたような気がする。何せ、二泊三日その建物には、私たちしかいないのだから、オーナーにしてみたら気にもなるのだろう。

奥さんと自己紹介やハグし合って、どうも合格したらしい。帰るときは、つまりチェックアウトのときは、鍵を二階の入り口のドアに挿したままでいいよ!と言ってくれた。その場での現金払い。

このアパートメントホテル、今迄の2つのホテルには無かったものが据え付けられていた。やったぁ! なぜ無かったのか、不思議だった。それは...。


有名な間欠泉。